完全に知られ完全に愛されている
率直に向き合いましょう、人間関係は簡単ではありません。私たちは自分が他の人にどのように見られるかについて心配します。 時々、知らない人が周りにいると恥ずかしかったり、ぎこちなく感じたりします。この人に話しかけるときに敬語を使うべきだろうか?なんて考えたり。誰かから自分のことを完全に知られ、完全に愛されることを想像できますか?
ある日曜日の夕方、バイブルスタディの終わりに、私はグループのメンバーに何か祈れることがあるか尋ねました。私のクリスチャンではない友人は、彼の”人間関係”のために祈ってほしいと答えました。このような質問をする際に、同じ答えをする人が多いことに気づき始めました。
他にも多くの人が同じように感じていることを忘れがちです。日本政府は、2019年の時点で少なくとも100万人の「ひきこもり」状態の方がいらっしゃると推定しています。日本の100万人以上の人々にとって、他の人々との関係を含め、世界のプレッシャーに立ち向かうよりも、内にこもることの方が簡単です。
誰かに尋ねられたとしても、自分自身のことを完璧な人間であると主張する人はほとんどいません。私たちは誇りに思えないようなことを全てしてきました。それらを隠したいのは当然です。”本音”や”建前”など、本当の思いや気持ちを隠す言葉まであります。 おそらく建前を立てるのは、人間関係を穏便に済ませ、本当の考えや感情を表せば、他の人から否定的に捉えられるのではないかと恐れているからです。
誰かがあなたのことをすべて知っていると言ったらどうしますか? あなたのすべてをです! そほとんどの人は、もしすべてが知られているのなら、心配だし恥ずかしいと感じるでしょう。 しかし、福音は私たちが完全に神に知られ、それでも完全に愛されていると語っています。これは本当に良い知らせです。
このトピックについて聖書が語っていることを見てみましょう。
ローマ人への手紙3:23
“すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、”
聖書によると、誰もが罪を犯しました。罪とは何でしょう?それは、私たちが神が尊重されないことを、言うこと、行うこと、または考えたり思うことです。 神との関係よりも私たちの人間関係を大切にすることも罪なのです。
私たちは自分の罪を神から隠すことはできません。 神の御前で、本音と建前を使うことはできません。
ヘブル人への手紙4:13
“神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。”
聖書によると、神は私たちの罪深い考えや思いのすべてを知っています。それ自体は悪い知らせですが、キリスト教のメッセージはそこで終わりません。
ローマ人への手紙6:23
“罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。”
私たちは罪を犯しているので、死に値します。 ただし、次のような良い知らせがあります。
ローマ人への手紙5:8
“しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。”
私たちがまだ神に対して罪を犯していたときでさえ、神は私たちのために死ぬように神の一人子イエスを送ることによって私たちへの神の愛を示しました。 イエスは3日後に墓からよみがえり、イエスを信じる者はすべての罪の赦しを受けます。
イエスを信じる人々は、彼らが完全に知られ、完全に愛されていることを喜んでいます。