自殺の2つの要因とキリスト教的応答

自殺というトピックは、2011年まで、私が個人的に向きあわなければならないものだとちっとも思っていませんでした。友人は自分のうつ病について、また自分の命を絶とうと思う誘惑に駆られることについて、率直に話していました。私は彼と話すたびに、キリストがいかに彼を自由にしてくれるのかについてよく話し合っており、彼はそのことを信じていました。しかし、ある日、彼はその命を絶つことへの誘惑に屈しました。私の世界、そして彼を知っているすべての人の世界は、永遠に変わってしまいました。親友が命を絶ったことに対するショック、恐怖、麻痺するような感覚はとてもリアルでした。彼と共有した喜びや悲しみ、今でも一緒に過ごしたたくさんの楽しい思い出を覚えては、その悲しい死を悼んでいます。

このブログでは、自殺というテーマについて紹介し、次に、自殺につながると思われる2つの要因を挙げます。そしてこれらの要因に対しキリスト教的にどのように捉えるかについてをお話します。

私は心の健康の専門家ではありません。私の仕事は副牧師です。私に分かることは、どんな困難な状況の中にあっても聖書の言葉には大きな希望があるということです。自殺という問題においてでさえも。

ここ日本において、死は、特に自殺を通して、賛美されることがあります。自殺は、自分の罪や過ちを償うために自分の人生を終わらせる崇高な方法として捉えられることがあります。東京のテンプル大学の心理学者である西田渉氏は、BBCの取材に

「日本にはキリスト教の歴史がないので、日本において自殺は罪ではありません。実際、自殺は責任を取るための方法として捉えている人もいる」

と述べています。ここに疑問があります。それは一体に何に対しての責任でしょうか?私たちが他人を傷つけたことに対しての?私たちが口にすべきでなかったことを発言したことに対しての?これらは神の律法に私たちが従うことが出来ないという、聖書が「罪」と呼ぶものです。では、自殺は罪の責任を取るための有効な方法なのでしょうか?私たちは自分の命を絶つことで、実際に罪を償うことができるのでしょうか?何かをすることによって聖められることはあるのでしょうか?聖書は、私たちの罪を償うのは自分自身の死ではないとはっきりと教えています。

聖書は私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって義とされていることを教えています。罪の問題が何らかの犠牲によって解決されなければならなかったのは事実です。問題は、私たちは不完全で罪深く、壊れた人間だということです。完全な犠牲のみによって解決されます。神はこのことをご存知で、それ故に、愛をもってその御子イエスを遣わし、イエスは罪のない完全な人生を送り、十字架の上で恐ろしい罪人の死を遂げてくださいました。その三日後、イエスは死からよみがえられ、今日、天国で生きておられます。イエスはサタンをいのちの敵だと言われ、ヨハネの福音書10章10節で、サタンは盗人と表現されています。イエスはこう言われています。

ヨハネの福音書 10章10節
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

死とは対照的に、イエスは私たちに充実した豊かな実りある人生を送ってほしいとおっしゃっています。イエスはあなたに、可能な限りの豊かで有意義な人生を与えたいのです。自殺は、私たちの人生を終わらせるための罪深い手段であり、崇高な手段ではありません。責任を取る手段ではなく、自分や周りの人を苦しめる結果になるだけです。聖書を通して、私たちは、神が私たちをお造りになり、私たちに日々の計画をご用意されていること、そして私たちの地上での死は神のみこころの結果であって、私たち自身の意志の結果ではないことが分かります。

アンソニー・ボーディン氏をご存知でしょうか。彼はアメリカの作家、シェフ、テレビジャーナリストでした。彼は、ニューヨークタイムズのベストセラーの著者であり、世界を旅して食を通して人と人とを繋ぐテレビ番組の司会をしたりしていたことで最もよく知られていました。彼以上に、多くの経験をした人、多くの食べ物を試した人、さまざまな国で写真を撮った人は、世界でもほとんどいませんでした。2018年の初め、撮影の為にフランスで仕事をしていたボーディン氏は、自殺をし、ホテルの部屋で発見されました。そのことは彼を個人的に知っていた人にも、彼の作品のファンだった世界中の多くの人々にも衝撃を与えました。ベトナムで彼と一緒に食事をしたことがあるバラク・オバマでさえ、彼の死後に次のように語っています。「彼は食べ物についてのたくさんのことを私たちに教えてくれたーしかし、もっと重要なことに、食べ物がいかに人を繋げてくれるかということを教えてくれた。人と繋がることは、未知の世界への恐怖心を和らげてくれる。」ボーディン氏は非常に尊敬されていた人でした。

ボーディン氏のストーリーは、他の何百人もの人が持つストーリーの1つであります。成功、名声、経験、富だけでは、生き続けたいと思わない人もいるようです。

厚生労働省によると、2018年(平成30年)、自殺は10歳から44歳までの男性の死因の第1位、15歳から34歳までの女性の死因の第1位でした1。日本の15~44歳の男女の死因の第1位は、事故や病気、飢饉、また自然に起こるような原因ではありませんでした。自殺が死因の1番になったのは、自分で自分の人生を終わらせるという信じられないほど難しく恐ろしい決断を人々が積極的にしたからです。彼らは両親、友人、親戚を残して死を選びました。2018年の日本での全死亡者のうち16%が自殺でした2。

自殺が死因の1番を占めるというのはとても悲しいことですが、自殺を選択した人たちは単に自己中心だったと捉えがちだと思います。友人が自ら命を絶った後、彼が自殺を決めたのはすごく利己的だったと怒りを覚える時期がありました。人が自らの命を絶つことは、少子化、労働力の欠如、その他多くの社会問題において、何の助けにもなりません。しかし、この行動をただの利己的なものとしてすぐに否定してしまうと、人をどうやって助けるか、あるいは自分自身が必要としている助けをどのように得ることができるかを考える重要な機会を逃してしまうのではないでしょうか。

自殺をしたいという思いに駆られる要因は非常に多くあります。その複雑さから、ここではすべての要因と理由に踏み込めませんが、自殺をしようとする気持ちを促す2つの要因について話したいと思います。まず一つ目は:

生きることへの恐怖

デヴィッド・フォスター・ウォレスは アメリカの大学教授であり、有名な作家でした。彼は私が共有したいと思う自殺についてのことを書きました。彼はそれを、火事の炎から逃れるために高いビルから飛び降りようとする人の話をすることで説明しています。

高いところから落ちる恐怖は、あなたや私が同じ窓辺に立って、ただ景色を眺めている時に抱く恐怖と同じくらいのものです。つまり、落ちることへの恐怖はそこにずっとある訳です。ここで異なるのは、もう一つの恐怖、火事の炎であるのです。炎に囲まれる時、飛び降りることと炎の2つの恐怖を体験するより、死は少しだけ恐ろしくなくなるのです。落ちることを望んでいるのではないのです。炎に対する恐怖故に、飛び降りる選択をするのです。建物の下から見上げて「やめろ!」「もう少しそこで頑張れ!」と叫んでいる人は、飛び降りる人の気持ちを理解できません。実際、炎に囲まれてみないと、飛び降りる恐怖を超える恐怖があることを理解できないのです。

ウォレスは、自殺の恐怖を二つの恐怖のうちの小さい方の恐怖と表現しています。”飛び降りることをはるかに超えた恐怖”、つまり自殺の結果を超える恐怖が、人を自殺に追い込むのです。2016年の労働省の推計では、自殺者の21%が借金などの生活困難を抱えていると発表しています。また、2割強は家族間での問題があることを示しています3。これらは、人々が直面している人生の恐怖の一部です。

アンソニー・ボーディン、三浦春馬、竹内結子、他にも2018年に日本で自殺した2万人以上の人たちを悩ませた人生の恐怖は現実のものでありますが、イエスはそれをも克服してくださったのです。うつ病の原因は複雑で難しいことが多く、長年の睡眠不足が脳にダメージを与えることが研究で明らかになっています4。そして、体が回復するまでに長い時間がかかることもあります。クリスチャンとして,私たちは神が与えてくださったものを他の人々に分かち合いたいと願っています。本来の自分を見てもらえ、耳を傾けてもらえて、大切にされる安全な場所。イエス・キリストのメッセージは、人生がもたらすどんな困難にあっても希望を与えてくれます。

もう一つの自殺を促す要因は:

私たちの価値を決める社会

人としての価値は、仕事や出身大学、これまで訪ねたことのある場所や所持金などで決まると考えられがちですが、これはキリスト教の聖書の世界観とは大きく異なります。キリスト教の聖書の世界観は、私たち一人一人は、その社会的地位に関わらず、価値と尊厳があるというものです。神は愛をもってこの世の一人一人をお造りになったのだから、私たちには皆、価値があるというものです。

マコト・フジムラ氏は、その著書『カルチャーケア』の中で、社会が人の価値を決定するという問題を取り上げています。文化的に許容される職業選択について、フジムラ氏はこう書いています。

親は子供に、文系ではなく『役に立つ』分野を専攻するように勧め、そうしなければ経済的な支援を差し控えるという脅しをかけていることがよくあります。持続可能なキャリアを望むことは素晴らしいことですが、そのような推奨は、教育そのものだけではなく、人としての価値を低下させます。役に立つ学位を取得するという実利的な目標は、「役に立つことができてこそ価値がある」という考えを形成してしまう可能性があり、さらに悪いことには、その考えは疑う余地のない事実であるという思い込みを促すことにもなりかねません。

教育は、社会においての地位を獲得するための手段であり、私たちはそれを達成するために一生懸命働いたり、お金をもってして得たりすることもできます。しかし、もし私たちが教育や社会的な目標を達成できないまま終わってしまったらどうなるでしょうか?それは私たちに価値がないことを意味しますか?あるいは、達成したとしても、それは他の人よりも価値があるということを意味するのでしょうか?もちろんそんなことはありません。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 エペソ人への手紙 1章3節

神は、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ可能な永遠の喜びと平安を得る方法を私たちに与えてくださいました。しかし、その考えなしでは、危険なほどに、どんなものでも、どんな人でも、評価されず、使い捨てになってしまいます。

このことについてキリスト教的な視点で考えてみて頂くために、下記に、関連する聖書の箇所をいくつか分かち合いたいと思います。聖書をお持ちでない方は、ぜひお知らせください。無料でお渡しいたします。

  • イエス・キリストの犠牲のおかげで、イエス・キリストを信じる者は新しく造り変えられた者となりました(2コリント5:17)。

  • 私たちを神の愛から引き離すものは何もありません(ローマ8:38-39)。

  • 聖書は、イエスが悲しみをよくご存知であったことを教えています(イザヤ53:3)。

  • すべての被造物がうめいているのは、物事が本来あるべき姿ではないからです(ローマ 8:22)。

  • 肉をまとった神であるイエスは、死ぬほど悲しんでおられました(マタイ26:38)。

  • イエスは、イエスのもとに来る者は皆、その魂が必要とする安息を見つけると約束されています(マタイ11:28-30)。

神は、驚くべき形で人の悲しみを理解されています。

ヨハネの福音書16:33においてイエスはこのように言われました。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」 ヨハネの福音書 16章33節

聖書はまたイエスがこのように成さることを約束しています:

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
ヨハネの黙示録 21章4節**

イエスは罪の問題を克服され、あなたに罪を悔い改め、イエスだけを信頼するようにと招かれています。

イエス・キリストの約束とキリスト教についてもっと知りたい方は、誰でも歓迎されている日曜日の集まりに是非お越しください。また、お近くにマスタードシードクリスチャン教会があるかどうかについては、ここからチェックしてください。

これはマスタードシードクリスチャン教会の自殺に関わる聖書の教えのビデオです。

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