みんなぼっち

目を閉じて夢のシナリオを想像してみてくださいと言われたら、あなたは何を思い浮かべますか?行きたい場所とか?懐かしい思い出とか?

今すぐやってみてください。ここで待ってます。 

あなたが考えるシナリオは恐らく携帯電話とにらめっこしているものではないでしょう。他の人と一緒にいる可能性が高いのではないでしょうか。良いことを経験すると、その良いことを大切な人と共有する傾向があります。新しいジョークを聞いたら、そのジョークを他の人と共有するのが好きです。私の好きなスポーツチームが優勝したとしましょう。一人でソファに座っているよりも、大勢のファンがいるアリーナでその経験を共有することには特別なものがあります。

それなのに、私たちの多くは常に一人の時間を持つために人との交流の時間を割きます。デジタル化された生活は、スクリーン上での交流でもまるで直接会って交流しているかのように感じさせることもできますが、注意していなければ、実際には途方もなく孤立してしまう可能性があると私は主張したいと思います。私たちはものすごい勢いでメディアに触れています。テレビのチャンネルをひたすら変えて、好きな時に好きなものを見ることができます。SNS上で自分の意見(またはランチに何を食べたか)を共有している友人とちょっと距離を置きたければ、通知をミュートすることができます。誰にも自分がその人の投稿を見るのをやめたことを知られずに、仲の良い友人であり続けているように見せることができます。私たちが消費するメディアのほとんどには、「ソーシャル」という誤解を招くような名前がついているのです。ソーシャルメディアは私たちを騙し、実際の生活に密着した交流に参加しているように見せることはできますが、それが本当に実際の交流に取って代わることは決してありません。デジタル化された生活を個人的なものに置き換えることには危険があります。シェリー・タークルという著者は、彼女の著書『ひとりぼっち』の中で、次のように書いています。”デジタル上の繋がりは、本当の友情なしに交友関係の錯覚を提供することができるかもしれない。ネットワーク化された生活では、互いに繋がっていても,互いから隠れることを可能にしている。”

聖書は、デジタル上での孤立という文化的規範に反して、共に生きることの価値を教えてくれます。教会は、この規範を崩し、他者との真の関係を築き、共同体を通してイエス・キリストにある神の無条件の愛を体験する機会を提供してくれる場所なのです。聖書からのいくつかの主張を共有したいと思いますが、私たち皆がテクノロジーに代わって、より多くの対面での交流を持つように奨励したいと思います。

  1. 一人でいるのはよくない。

    唯一まことの神は、この世界と宇宙全体のすべてをお造りになりました。神は人間を創造されました(創世記1:26-27)。また、神は人が一人でいることに満足されなかったことも聖書から学べます(創世記2:18)。神は、男と同じように価値があり重要である女という助け手をお造りになりました。すべてのものが創造された最初の段階で、神は人が共に生きるように創造されたのです。このことは、私たちが他の人と共にいるように造られたことを理解するのに役立つはずです。

  2. 互いに

    新約聖書の中には、クリスチャンに対し、交流についての指示が与えられている箇所が 50箇所以上あります。互いに赦し合い(コロサイ3:13)、互いに罪を告白し合い(ヤコブ5:16)、互いに仕え合い(ガラテヤ5:13)、互いにもてなし合う(第一ペテロ4:9)ように言われています。他にもたくさんあります。わたしたちは、自分のことより他の人を大切にするように言われています(ピリピ2:3)。これらすべてのことを総合的に見ると、その行動は、人の壊れた状態の中に来られたキリストの行動であることがわかります。人として人の間に住まわれたのは決して心地良い経験でなかったにもかかわらず、イエスは私たちに謙遜に他人のために犠牲になる人生の模範を示してくださいました。他者との交流をデジタル空間に限定していると、このようなことはできません。これが最後のポイントです。

  3. イエスは私たちの罪のために来て死んでくださった

    世界がこれまでに、そしてこれから知ることの出来る愛の最も偉大な例は、イエス・キリストが地上に来られ、完全な人生を送り、十字架で罪人の死を遂げられ、死からよみがえられたことです。

実際、聖書はピリピ人への手紙の中で、イエスのために、他の人の人生をデジタルを通して見ようとする風潮に逆らって生きるようにと教えています。

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
ピリピ人への手紙 2章4~8節

イエス・キリストを信じる信仰は、あなたを新しく造られた者に変えます(2コリント5:17)。これは一人きりでの経験ではありません。これはあなたを神の家族である教会に属するようにする経験なのです。私たちが聖書の言うように生きようと努力するところです。

イエスは、私をちらっと目にして、右にスワイプしません。イエスは、私の愚痴に飽きて私をミュートにしません。イエスは、私がイエスと関わりたくないと言っても、私をブロックしたりしませんでした。イエスは私を、あなたを、完璧な愛の目と思いやりの目で見ています。

最近では、人との交流が当たり前だと捉えられていたが、実はそうではないことに多くの人が気付いています。ウィルスに関する懸念から、直接会って交流することに警戒しながらも、実際に会うときには必要な予防対策を取っています。直接に会う機会はあります。そして、その時には、このような貴重な個人的な交流に焦点を当てることから離れないようにしましょう。

ここで挑戦です。今週のある日、友人や家族と直接会って一緒に過ごす時間を作ってもらいましょう。そして、共に時間を過ごす間、携帯を家に置いておくか、カバンの中にしまったままにします。共に過ごす人の人生に完全に関わるという、素晴らしいけれど大変なことを実践してください。

これは大変なことですが、それだけの価値があります。

マスタードシードクリスチャン教会では毎週、他の人と直接会って聖書から神の愛について学ぶ機会を提供しています。直接会う日曜日の集まりに参加するための詳細については、当教会のウェブサイトをチェックするか、メールを送ってください。

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