人の目と神の目
時折、漢字は辞書よりも早くその言葉の意味を教えてくれます。その代表的な例が「人目(ひとめ)」です。他の人からどう思われているかという意味です。
多くの日本語の諺が、この「人目」という言葉に関連しています。例えば「出る釘は打たれる」。他人がその人のことをどう思うかによって、その人となり、又は、その人生の意味が決まります。だから、人は人目を引くことよりも、人に合わせることを好むのです。周りに順応している方が安全だと感じます。避けたいことは「外の人」となることです。
私たちは人からどう思われているかを考えることが多いですが、もし私たち一人一人が、神が私たちをどう思っているかを深く、頻繁に考えるとしたらどうでしょうか?「社会は私のことをどう思っているか」という質問だけをするのではなく、「唯一、真の神は私のことをどう思っているか」という質問もしてみましょう。
人の目には、私たちは落ちこぼれかもしれません。名門学校を卒業しなければ、東大を卒業した人ほどの価値を自分に対して感じないかもしれません。周りの人の考えや気持ちは、条件付きであることがとても多いです。知能が高いから、才能があるから、実力があるから、肩書きがあるから、美しいから、など、そのような条件があってこそのことが多いです。つまり、あなたがとても頭が良くて、能力があって、強い人であれば、周りの人はあなたのことを高く評価します。逆に、あなたが他の人の基準に全く合わなければ、周りの人はあなたを低く評価します。人の目に映ることで、自分の価値の認識が変わってくるのです。
しかし、私たちは神の目には、どのような者なのでしょうか?聖書はいくつかの箇所で答えています。
イザヤ書43章4節
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
ここで神は、神の目には神の民は高価であると語っています。人は尊く、愛されています。
唯一、真の神は、すべての人を創造されました。それだけでなく、人類を、宇宙に存在するその他の別のものよりも特別な存在としています。
創世記1章27節
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人と創造し、男と女に彼らを創造された。
神は、これまで命があったすべての人を造っただけでなく、すべての人に固有の価値をお与えになったのです。この価値は、私たちの行いから得られるものではありません。私たちの履歴書では神を感動させられません。イエスが人を何に例えておられるのか、ここでご覧ください。
ルカの福音書 15章8~10節
また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
ここで、イエスはすべての人をお金に例えています。クリスチャンでない人は、なくした硬貨のようなものです。ある意味、人がなくした硬貨を探すのと同じように、神様はあなたを探しているのです。このブログを読んでいる一人の人としてのあなたは、神にとって価値があります。神様の目には、東大卒も鬱で引きこもり状態にある方も同等の価値を持っています。ですから、東大卒の方は喜びをもってへりくだり、鬱を経験していたり、引きこもりっている方は、神様の目には自分が尊く、価値があることを知り、励まされるはずです。
人の目から見て、私たちの価値は、他の人がどう思うかによって決まります。神の目には、私たちの価値は、聖書の中で神が私たちについて語っていることによって決まります。私たちは神に似せて造られました。私たちは宇宙の他のものとは区別されています。神は私たちを愛しておられます。
神は実に私たちを愛しておられるが故に、ご自分の一人子であるイエスをお遣わしになりました。イエスが私たちの罪のために十字架で苦しみ、死んでくださったことを信じる者は誰でも赦されます。神様はその三日後、イエスを死からよみがえらせてくださいました。これはすべての人にとってとても良い知らせです。私たちはイエスに従って、神様の目に映っている自分を知るべきです。
なくした硬貨のたとえ話の要点は、ある女の人の宝物に関する心温まる話を伝えることではありません。もっと大きな物語を指し示しています。あなたと私は神の宝であるということです。神は私たちを探し出し、神との関係を回復させるために力を尽くしておられます。神は私たちの価値を知っておられ、私たちの罪のために十字架で死なれ、三日後に死からよみがえられたイエスを信じる信仰によって、私たちの神との関係は回復されます。そして、それこそが私たちの価値を真に気づかされる唯一の場所であり、私たちは神の目になるべき姿となることができるのです。